2019年9月1日、鳥取県埋蔵文化財センターにてお城に関する考古学フォーラムがあるということで行ってきました。
毛利3つの籠城戦を読み解く
今回の議題は籠城戦。安芸郡山城、月山富田城、鳥取城で繰り広げられた有名な籠城戦について最新の研究調査の結果わかった既存の解釈とは違う新しい解釈の仕方、また今まであまり触れられてこなかった面に注目した貴重なお話を聞くことができました。
雑兵たちの籠城戦
はじめは「戦国の世を生きる人々」ということで伊藤正義氏のお話。
雑兵、足軽にスポットをあてたお話で、そういえばちゃんと考えたことなかったなあと思いつつ聞き入ります。
足軽については17世紀後半に作成された「雑兵物語」が資料としては非常に優秀で国立公文書館と東京国立博物館に現存。著者はあの島原の乱で天草四郎に引導を渡した松平信綱!……ではなくその第5子の信興。足軽訓練のテキストのような役割でつくられたそう。
その資料を元にした先生のお話のなかで自分が興味深かったのは
・戦ではたとえ味方であっても食料を奪い取れ(笑)
・逃げるときは敵に利用されないように井戸に糞をいれる(笑)
・戦で米を配給するとき5日文以上渡してはいけない→理由は多く渡すと酒を作る奴がでてくるから(笑)
うーん…訓練以前の問題のような気がしますがその中で、
・1日に水は1升、米は6合、塩は10人で1日1合、味噌10人で1日2合必要
という記述があり、米6合かーとちょっとびっくりしました。多いんじゃないかと思いましたが遊んでる訳じゃないし常に緊張しっぱなしなのでそのくらい必要なのかなと。
また先生は戦国時代の村町の年貢、軍役負担の実態を研究されていてここでは詳しい話は割愛させて頂きますが興味のある方は是非調べてみて下さい。
安芸郡山合戦
次は秋本哲治氏の安芸郡山城の籠城戦についてです。
郡山合戦というとざっくり尼子が毛利を攻め毛利が籠城して10倍近い戦力差を覆して撃退した、というのが今までの通説で自分もそう思ってきました。
しかし色々調査が進むにつれてそうではなかったという話はよくあることで、この郡山合戦においてはなんと籠城戦ではなかったという事実が!大変興味深い内容でした。
最新攻城兵器 赤色立体地図
簡単に説明すると郡山合戦でそれぞれ尼子、毛利、大内が布陣した城を調べると、どういう意図でその城が築かれたかがわかるのだそう。
その時に使うのが航空レーザー測量データをもとに作られた赤色立体知図というもの。
航空機から照射するレーザにより、地上の高さや形状を3次元で 計測するというものでこれのすごいところは木がはえていても下の地形がきちんと測量できるというところ!
今まで山城の調査というのは少し言い方は悪くなりますが縄張りを描く人の主観が入ったものだったのがこれにより郭の大きさ、切岸の傾斜角度が客観的に正確にわかるようになります。
今後はこのレーザー測量が主流になっていくんでしょうね。今まで人が入れなかったところの調査もできるので新しい城、再発見が爆発的に増えていく予感がします、楽しみですね!
漁夫の(毛)利?
その調査結果によると、前半軍が攻めてきた尼子軍が布陣した風越山の城は、周りの城と比べると作りが甘くベースキャンプ程度の規模しかないことがわかるそうです。その後尼子軍はそこから南の青山三塚山というところに陣替えを行うのですが、ここに築いた城は非常に規模が大きく畝上竪堀も見られ防御を意識したつくりの城だということがわかったそうです。
それにひきかえ毛利、大内が布陣してつくった城は規模こそ大きいものの竪堀などの防御を意識したつくりが全くないのだそうです。
つまり前半尼子軍は様子見をしながら出陣をするも敗退→どうも分が悪い→ちょっと勝てなさそうだなというのが早い段階でわかっていたが攻めてきた手前すぐ引くとはいえない→後半は防御を意識した城を築城、逆に尼子側が籠城戦へ、毛利大内は総攻撃という感じが両者の城づくりから想像できるのだとか。
城のつくりから戦いの流れがわかるという内容で非常に興味深いものでした。やはり城というのは合戦の一つの手段であり、なぜそこにあるのか目的はなんだったのかを常に一緒に考えることが重要だと再確認させられましたね。
ちなみにタイトルの漁夫の利というのは、毛利元就はこの戦いの後「毛利元就郡山籠城日記」というのを細川晴元に送っていて、それがかなり誇張されていてほとんど元就が自分の戦果を強調するためだけに書かれたものとなっているのです。さすが謀神、抜け目ない。
さらにこの日記は本来このタイトルではなく、日記中にも籠城に関する記載はないそうです。江戸時代に攻め込まれたというイメージでつけられたものでこれが郡山=籠城戦のイメージの元になっているみたいですね。
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